「般若波羅蜜多の咒を説く」として、以下に具体的な真言が説かれます。「大神咒」「大明咒」「無上咒」「無等等咒」は、「般若波羅蜜多」をさすと同時に以下の具体的な真言を示すことになります。
ところがサンスクリット本では、上のように称讃された真言は「智慧の完成において説かれた」となっています。般若波羅蜜多において説かれたというのです。般若波羅蜜多が真言なのではなく般若波羅蜜多を行じているとき、「空」という真実を理解し、「空」にしたがって、「空」を実践する生活の中で唱える真言と理解すべきなのではないかと思います。
悟りに向かって修行する、つとめ精進するなかで理解し、納得し、うなずき、実践し、また理解・納得・うなずきがあり、再び実践し、また再度…、という不断の繰り返しのなかで、口に唱え、心にとどめて願いとしてたもつのが以下に説かれる真言なのです。
アングリマーラというお釈迦様の弟子がおりました。彼はもと「指鬘外道(しまんげどう)」と呼ばれた大悪人でした。人を殺してはその指を首飾りにしていたのです。お釈迦様に諭され弟子になりました。
このアングリマーラが道端で難産に苦しんでいる貧しい女性に出会います。どうすることもできず、あわてて帰ってきてお釈迦様に報告します。すると「私は今まで人を殺したことがない。この真実によってお産が無事にすむように、とその女性にいいなさい」といわれます。とんでもないとアグリマーラは驚きますが、戒を受け出家し、修行者として生まれ変わってから殺人を犯していないのだからこれは真実だ、とお釈迦様にいわれ、そのとおりにすると無事出産した、という話があります。
もちろんアングリマーラのことばに医療行為のような効果があるわけではありません。しかし、アングリマーラの真剣な切なる願い、祈りが通じたのでしょう。小さい子どもがころんで膝を打ったときに、母親が膝に手を当てて「痛いの痛いのとんでけー」とやると痛くなくなるということがあります。母親の愛情のこもったことばが子どもの心にとどき、痛さがやわらぐのでしょう。
真実のことばにはたしかに力があります。おまじないをしてもらうと、お金がもうかるとか、健康でいられるとかいう、いわゆる現世利益とは違う力がここにはあります。真言や陀羅尼は悟りというレヴェルまで引き上げられた、願い、祈り、誓願のことばです。
「般若波羅蜜多」や「掲帝 掲帝…」は、単なるおまじないでもなく、現世利益を願う呪術でもなく、悟りに向かって生活していくなかでの祈り・誓願ととらえるべきだと思います。
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