いよいよ最後の真言です。
真言や陀羅尼はそれそのままが真実であり、そのまま口ずさむものです。口ずさむことによって、真言の力が発揮され真実に合一できるというものです。ことば自体に力があるので、意味を訳さずそのまま読まなくてはなりません。
「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶」は音写語です。「ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーぢーそわかー」と発音しています。サンスクリット本では、" gate gate paragate para-samgate bodhi svaha " となります。音写すれば、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」となります。
中村元博士は、この真言は文法的に正規のサンスクリットではないため、決定的な翻訳は困難であり、参考のために、と次の訳例を紹介しています。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、幸あれ。
中村先生の訳を読みますと、直接な関係はないのですが、次のお釈迦様のことばを連想します。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。(『スッタニパータ』一四五。中村元訳『ブッダのことば』)
すべての生きものが幸福であるようにという祈りのことばです。私には、このお釈迦様のことばと『般若心経』の真言とが同じことのように感じられます。「すべての生きとし生けるものが、「空」を体得し般若波羅蜜多によって、悟りの彼岸に到達できますように」という祈り、願いが真言の意義だと思います。
しかし、訳例を示しておきながら矛盾するようですが、それでもやはり意味はわからない方がいいのではないかと思います。意味がわかってしまうと、その意味に束縛され「ことばの虚構性」にとらわれてしまいます。幸いというべきか、真言は上述したように意味を確定できないので、そのままを心にとどめ、ただ唱えていただくのが真言にふさわしいのではないかと思います。
四国八十八か所の霊場をまわるお遍路さんは、この真言を唱えながら歩くといいます。道中の安全や巡礼をできることへの感謝などさまざまの願いが込められているのでしょう。私たちもまた人生という巡礼の旅を歩んでいます。『般若心経』を人生の「経」、すなわち「たて糸」にして前向きに歩き続けていくことこそが、『般若心経』を讃え、「悟り」を祝福することになるのではないでしょうか。
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