『般若心経』には、本来題名はなかったようです。しかし、中国人は題名がないとすわりが悪いと考えたらしく、サンスクリット原典の最後にある「智慧の完成の心」という文句を「般若波羅蜜多心経」と訳し、経題として据えたようです。
ところで、曹洞宗では「摩訶般若波羅蜜多心経」という具合に、「摩訶」という語を頭に付けて呼んでいます。
私たちが現在読誦している『般若心経』の元である玄奘訳には、「摩訶」という語はついていませんが、鳩摩羅什訳は『摩訶般若波羅蜜大明呪経』と「摩訶」の語がついています。また、『開元録』というお経の目録の二巻目には、支謙(三世紀頃)の翻訳したものとして『摩訶般若波羅蜜呪經一卷』のあったことが紹介されています。
このような事例から想像しますと、鳩摩羅什訳などには「摩訶」があるのだし、「摩訶」を付け加えたほうが『般若心経』の真価をよりよく表現できると考えて、わが国で付け加えられたのではないでしょうか。
さらに、真言宗では空海の持ち帰ったサンスクリット原典にしたがって、その上に「仏説」を付けるとのことですが、ここでは呼び慣れている「摩訶般若波羅蜜多心経」について、その意味を考えていきたいと思います。
まず、「摩訶」というのは、「マカ不思議」などというときの「マカ」のことですが、サンスクリット語の「マハー」の音写語で、「偉大な」という意味です。もちろん、『般若心経』の功徳や力の偉大さ、絶大さを讃えていったものです。そして、この「偉大さ」は、他のお経などと比べて、つまり相対的に偉大だといっているわけではなく、絶対的な偉大さであり、それは大小という概念の分かれる以前の、あるいはそういった考えを超越したものだということに注意していただきたいと思います。
私たちは普段、あれが大きい、これが小さい、これが少ない、あれが多い、これが劣っている、あれが優れているというように、ものごとを比較し判断しています。しかし、宗教の世界は相対的な世界ではなく、絶対的なものです。ですから、自分の信仰している宗教がすべてで、それ以外は自分の宗教としては存在していないに等しいのです。ところが、世間ではこっちの宗教の方が劣っている、優れている、いや邪教だ、いや正しいなどと争っています。
かつて、マーガンディヤというバラモン(古代インドの司祭者階級)が、仏教は何を説くのかということを、お釈迦様に尋ねたことがありました。お釈迦様は、自分にはこれを説くということはないし、ものごとにもいかなる見解にも執着することをせず、よく考えて「内心の安らぎ」を得たと答えておられます。 (『スッタニパータ』八三五〜八三七。中村元訳『ブッダのことば』)
こういった対立をすべて超えた絶対平安の境地が「摩訶」ということばの意味だと思います。
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