「般若」というのは、サンスクリット語の「プラジュニャー」あるいは東南アジアに伝わった上座部仏教の聖典語であるパーリ語の「パンニャー」の音写語だといわれていますが、ここでは、プラジュニャーを中心に考えていくことにします。
さて、この「般若」を訳しますと「智慧」ということになりますが、その意味についてはさまざまにいわれています。
たとえば、それは苦行や瞑想の末に悟りを開いたというときの「悟りの智慧」という意味で、私たちがいろいろ考えたり、思索したり、分析したりした結果の知識とは区別すべきものとされたり、人間本来の浄らかな心・本性を指すもの、といわれたりしています。つまり、「知識」や「判断力」とは違う、いわば「根源的な叡智」だと解釈されているようです。
ところで、「般若」は「知識」や「判断力」とは違うものなのでしょうか。「般若」が単なる知識ではないことは間違いないと思います。しかし、無関係ではないと思います。
「プラジュニャー」は、「プラ」と「ジュニャー」から成っており、プラはおそらく「最高の・勝れた」という意味の形容詞「パラ」から来た接頭語で、「前方に、甚だ、大いに、優れた」等を意味し、「ジュニャー」は「知る、察する、認識する」等の意味になるのだそうです。 (金岡秀友校注『般若心経』)
「ジュニャー」はまさしく「知識」のことですから、「プラジュニャー」つまり「般若」は「大いなる知識」「最高の知識」ということになり、般若の本質は知識であると私は解釈しています。
それでは、単なる「知識」と「般若」の差は何でしょうか。
たとえば、ある中学生が社会科で、「基本的人権とは何か」という問題で満点を取ったとします。「人間が人間として当然もっている基本的な権利。日本国憲法は、思想・表現の自由などの自由権、生存権などの社会権、参政権、国・公共団体に対する賠償請求権などの受益権を基本的人権として保障している」 (『大辞林 第二版』 )とでも書けば模範的な答案でしょうが、この中学生が実際の中学校生活では、他の生徒をいじめていたらどうでしょうか。
この生徒は、基本的人権について、「知識」はあるが、「般若」はないということになります。実際にできなければそれは般若ではないのです。「知識」と「般若」の差は、「知っているだけ」と「実際にできる」ことの差だと思います。「知識」を得て実行し、その体験を生かして知識を深め、また実行し、さらに知識を深め、という不断の繰り返しの中で般若が生まれ、自分のものになっていくのだと思います。
←『般若心経を読む』の目次へ戻る
Copyright (C) 2005 般若心経ドットインフォ All Rights Reserved.
※当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます。