「菩薩」とは、「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略したもので、「ボーディサットヴァ」の音写語です。「悟りを求める者」という意味で、もともとはお釈迦様の前生の行いを創作したジャータカ物語の中で、お釈迦様の前生における呼び名として使われましたが、大乗仏教の発生をになった革新的な仏教者たちが、すべての人間は仏に成りうると確信し、悟りを求めて精進する者すべてを「ボーディサットヴァ」と呼ぶようになりました。以来、求道者一般を指すことばとなり、現在にいたっています。ですから、お悟りを求める心を起こせば、私もあなたも、誰でもが「菩薩」なのです。
また、菩薩は、自分の信念にしたがい、どのような困難にも敢然として立ち向かって打ち克ち、お悟りに向かって勇敢に邁進するので、偉大な戦士、勇者すなわち「摩訶薩」「大士」とも称せられ、「菩薩摩訶薩」「菩提大士」などと呼ばれることもあります。
さらに、観自在菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩など、菩薩の理念形とでもいうべき偉大な菩薩たちが考え出され、苦しみにあえぐ者たちを救ってくれるという信仰が作り出されるようになります。
さて、観自在菩薩というよりも、「観世音菩薩」あるいは「観音菩薩」といい、「観音様」といった方が皆さんにはおなじみだと思います。
このお名前は、鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』(以後『観音経』といいます)というお経に出てきますが、同じ菩薩を鳩摩羅什は「観世音」と、玄奘は「観自在」となぜ訳したのでしょうか。
玄奘の訳した原語は、「アヴァローキテーシュヴァラ」であり、これは「アヴァローキタ(観)」と「イーシュヴァラ(自在)」とに分解できるので、「観自在」と訳した (中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)のですが、鳩摩羅什が同様に訳さなかった理由には二つの説があります。
一つは、『観音経』の意味をとってそのように美しく訳したというものです。 (榊博士『梵語学』)たとえば、「観世音菩薩は、即時(ただち)にその音声(おんじょう)を観じて皆、解脱(まぬが)るることを得せしめん」 (坂本幸男・岩本裕『法華経(下)』)という一節からもうかがうことができると思います。
二番目の説は、原語が古い時代には「アヴァローキタスヴァラ」だったと推定され、それは『法華経』西域本でも確認できる (本田義英『法華経論』。同「観音の古名について」『龍谷大学論叢』第二九六号)、というものです。「アヴァローキタ」が「観」、「スヴァラ」が「世の中のすべての音」という意味になりますから、「観世音」と訳せるわけです。
ところで、『観音経』において、観世音菩薩は人間の苦しみの音声を観て、どんな苦しみにあっても、あらゆる姿に変身して救いにきてくれる菩薩としてえがかれていますが、「観る」あるいは「観ずる」というのはどのようなことをいうのでしょうか。
観光旅行というと、団体でどやどやと押しかけて、旅の恥はかき捨てとばかりに傍若無人に振る舞うというイメージが強く、あまりよい感じはしませんが、本来「観光」というのは、光、すなわちその地方の文化遺産や美しい景色、独特の文化を身をもって体験し、見聞きすることですから、有意義なことであるはずです。そして「観」とは、ただ見るのみでなく、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌に触れて感じるというように、五感を総動員し、それによって得た情報を心で知り、考え、楽しみ、感動するという意味に解釈すべきものと思います。
観音様の場合は、このような仕方で世の人々の苦しみの声を観じ、さらに心眼でも見るというべきだろうと思います。そして、様々の姿で身を現し、自由自在にお救い下さるのです。
智慧輪の翻訳した『般若心経』では、「観世音自在菩薩」となっていますが、そのようにお呼びするのがふさわしい菩薩様です。
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