私たちの生きるということを考えてみますと、何らかの情報を入力し、何らかの反応を出力する、つまり、知識を得て、それにもとづいて実行するのが、生きるということです。
これを観音様に当てはめてみますと、「人間の苦しみの音声を観る」というのが知識を得ること、すなわち智慧のはたらきであり、「様々の姿で自由自在に救済する」というのが実行すること、つまり慈悲のはたらきであると考えてよいのではないかと思います。
ですから、「観世音」は智慧につながり、静的なイメージ、「観自在」は慈悲の面を表し、動的なイメージというように私は考えています。
この動的なイメージが強い観自在菩薩が、「深般若波羅蜜多を行じ」ているわけです。
ところで、少々細かいことになりますが、この部分の訳については、サンスクリットの原典を文字通りに訳すと、「深般若波羅蜜多を行じ」ではなく、「深般若波羅蜜多において行じ」と訳すべきだといわれています。 (立川武蔵『般若心経の新しい読み方』)つまり、「深般若波羅蜜多」は目的ではなく、お悟りに到るための方法手段なのです。生活の立場・方針・考え方といってもいいかもしれません。
たとえば、人のためになるという立場でいても、その実践は様々になり得ます。医者として僻地医療にたずさわる、建築家として安価で快適な家を設計する、プロ野球の選手として人々を楽しませる、等々、いくらでもあり得ます。人のためになるという立場で行えば、その実践は様々でも、生き甲斐になるという結果は同じことになります。
このような、生き方の立場・方針が「深般若波羅蜜多」であると考えてよいのではないかと思います。
また、「深」という形容詞がついているのは、この「般若波羅蜜多」が菩薩の修行徳目である布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜の一つである智慧波羅蜜ではなく、これらすべてを含むものとしての般若波羅蜜であることを明示するためであると解釈されているが、最初期にこういう自覚があったかどうかは疑わしい (中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)といわれています。
最初期にはどうであれ、「深般若波羅蜜多」が六波羅蜜全体のことを指すという見解に私も同感です。
というのも、前述したように「深般若波羅蜜多」はお悟りに到るための方法手段、あるいは生活の立場・方針ですから、その内容の一例としても修行の徳目である六波羅蜜がぴったり当てはまるからです。
さらに、その具体的な内容は『観音経』に説かれる観世音菩薩の救済の話であると考えたいと思います。 (金岡秀友校注『般若心経』)
詳しくは、『観音経』を実際にお読みいただくか、奈良康明著『観音経講義』のような書籍をお読みいただきたいと思いますが、ごく簡単に述べたいと思います。
観世音菩薩は、どんな危機的な状況にあっても、観音の力を念じ、「南無観世音菩薩」と称えれば、その危機から救ってくれます。
たとえば、大火の中にあってもその火に焼かれることはなく、大水に流されることがあっても必ず水の浅いところにたどり着けるという具合です。
また、観世音菩薩は、救済する人にもっとも適切な姿形で人間世界に現れて救って下さるのです。たとえば、仏の姿で現れたり、少女の姿で現れたりという具合です。
このあたりのことをまとめて、原典では「種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すく)うなり」 (坂本幸男・岩本裕『法華経(下)』)といっていますが、ここで出てくる「遊び」ということばには二つの意味が込められています。 (奈良康明『観音経講義』)
まず、「心から喜んで」救って下さるということです。勤めだからといやいやされるのではないのです。
次に、「自由自在のはたらき」で救って下さるという意味です。「観自在菩薩」ならではの見事な実践行です。
このように、観世音菩薩が心から喜んで、自由自在のはたらきによって、私たちを救って下さるという、まさしく身をもって行われるダイナミックな実践が、「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時」ということになるかと思います。
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