『般若心経』は誰が説いているのでしょうか。「え、今さら何をいっているの?冒頭に出てくる観自在菩薩に決まってるでしょ」と、思われる方がほとんどでしょう。しかし、舞台設定は何も書いてありません。「深般若波羅蜜多を行じ」る観自在菩薩と「舎利子よ」という呼びかけしかでてきません。「舎利子よ」と呼びかけて、以下の教えを述べるのは、観自在菩薩なのか、他の仏や菩薩なのかを判断する材料は出てきません。
一般的には、お経というのは、仏陀が説かれたという形式になっています。あるいは、仏陀の代わりに説いた者を仏陀が称讃し、その説かれたことが正しいことを承認するという形になっています。
このことから、『般若心経』の舞台設定として次の三つの場合が考えられます。
- お釈迦様が舎利子に説いている。観音様はお釈迦様の説法の中で語られるのみ。
- お釈迦様が舎利子に説いている。観音様はかたわらにいる。
- 観音様が舎利子に説いている。お釈迦様はかたわらにいる。
実際はどれなのか、決め手はありませんが、私には1が最もしっくり来るような気がします。
お釈迦様が、「空」と「般若波羅蜜多」について説くにあたり、まず観音様の救済の行を例に上げます。そして、それは実はこれこれこういうことなのだよ、と舎利子に説明するというのがいちばんひっかかりなく行くような気がします。
しかし、大本『般若心経』は3の舞台設定になっています。
もう少し詳しく紹介すると次のようになります。
お釈迦様は、多くの弟子たち・菩薩たちと王舎城の霊鷲山におられて、瞑想していた。そのとき観自在菩薩は、深般若波羅蜜多を行じているときに、五蘊は空であると照見した。すると舎利子は仏の意を受け、般若波羅蜜多の学び方を観自在菩薩にたずねた。 (中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)
たとえば、こういう状況を思い浮かべて下さい。
中学校の学級会で黒板の前の教壇には司会者の生徒がいる。対面して生徒たちが坐っている。先生は教壇の向かって左手、窓際に椅子を置いて坐っている。生徒のひとりが手を挙げて質問し始めた。
ここで、司会の生徒が観自在菩薩、生徒たちが弟子や菩薩たち、質問を始めた生徒が舎利子で、先生がお釈迦様、という具合でしょうか。
このように想定するとより具体的に状況が把握できそうです。生徒たちを代表して質問を始めた舎利子とはいったいどのような人物なのでしょうか。
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