舎利子、舎利弗、シャーリプトラ、サーリプッタというのは同一人物です。漢語では舎利子(しゃりし)」あるいは舎利弗(しゃりほつ)」と言われます。サンスクリット語では「シャーリプトラ」、パーリ語では「サーリプッタ」となります。
ところで、お釈迦様が使っていた言語はどんなことばだったのでしょう。サンスクリット語だったのでしょうか。それともパーリ語、あるいはバイリンガルだったのでしょうか。資料が少なくて、はっきりしたことはわからないのですが、「古マガダ語」だったと言われています。「古マガダ語」というのは、紀元前五、六世紀に東インドのマガダあるいはコーサラ地方で使われていた言語です。
バラモン(古代インドの司祭者階級)出身の二人の弟子が、お釈迦様の教えを「ヴェーダ」のことばで統一すべきだと主張しました。ヴェーダというのはバラモン教の根本聖典のことです。エリートのことばであるサンスクリット語で教えを説くべきだというのです。お釈迦様自身は王族としての必要な教養を身につけるために、あらゆる学問・技芸を習ったと言われていますから、サンスクリット語も使えたことと思います。しかし、お釈迦様はその地方の民衆がわかることばで教えを説くべきだと、サンスクリット的なエリートのことばの使用を禁じました。
「サンスクリット」は「洗練された」という意味で、これに対して「プラークリット」は「土俗の」という意味です。サンスクリット語は、お釈迦様より少し古い時代に出たパーニニという文法学者が文法書を書き、固定化されたものです。
また、「パーリ語」はプラークリット語の一種で、仏教が西インドに伝わり、西インド方言を基礎として成立した「聖典語」と言われます。紀元前3世紀頃、この地方出身のマヒンダがスリランカに仏教を伝えました。これが、現在の東南アジアの「上座部仏教」の始まりです。それはパーリ語でなされたはずなので、この頃にはパーリ語は成立していたと考えられます。
「その地方のことばで教えを説け」というお釈迦様の指示は、さまざまの地方で行われました。たとえば、紀元前2世紀から紀元前1世紀頃には、説一切有部を中心とした教団がインド西北部のカシュミール、ガンダーラ地方に定着したと言われています。この教団では、初期からサンスクリット語で教えを伝え、後には経典を記していました。
また、ガンダーラ地方では紀元前3世紀頃からガンダーラ語が使用され、ガンダーラ語の『ダルマ=パダ』(『法句経』)が残っています。時代ははるか後になりますが、鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』の原本は、彼の故国中央アジアのクッチャ亀玆(きじ)のことばで書いてあったといいます。
このように、地元のことばで教えを説くいう伝統は長く守られてきました。しかし、インドで発見された大乗経典のほとんどはサンスクリット語で記されています。
4世紀初めに、インドではグプタ王朝が起こり全インドを統一します。5世紀の半ばにはフン族の侵入で衰退し6世紀初頭には滅びた王朝です。この王朝はサンスクリット語を公用語に、バラモン教を国教にして、バラモンの法典を基準に社会秩序を維持しようとしました。ヒンドゥー教はバラモン教と融合して社会的勢力を増し、仏教などは劣勢になってきます。こういった状況の中で仏典もサンスクリット語で書かれるようになってくるわけです。インドで発見された仏典はこの王朝以後のものがほとんどですから、それらはサンスクリット語で書かれているということになります。ただし、サンスクリット語といっても、それは「仏教梵語」と呼ばれます。正式のサンスクリット語にわざとプラークリット語の要素を混合したもので、『般若心経』もこれで書かれています。
一方、東南アジアに広まった上座部仏教はパーリ語の仏典を保持し現在にいたっています。このような理由で、現存するインド由来の仏典はサンスクリット語のものか、パーリ語のものということになります。そのため、漢語に音写されたことばの元をたどるとき、サンスクリット語ではなになに、パーリ語ではなになにというわけです。
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