「私」は「空」だ、と観音様は「照見」されました。
「照見」は、観自在菩薩の「観」の原語の動詞形の訳語です。「観る」=「照見する」ということになります。「観る」は、五感を総動員し、それによって得た情報を心で知り、考え、楽しみ、感動し、観音様の場合は、さらに心眼でも見る、ことだと以前述べました。それを知ることによって考え方が変わり、人生が変わったり、生き方に影響を与えたり、というような見方をすると言い換えてもよいと思います。
「五蘊はすべて空であると照見して」というのは、私は空なる存在であるとわかり、それによって生き方が変わってしまった、と解釈したいと思います。
観音様は、幾多の救済行の実践の中で、救済する者、救済される者、救済という行がすべて「空」なるものであることを見抜かれたのです。助けたからといって、感謝や報いを求め、後々までも恩に着せることもない。助けられた方も、助けられたことに感謝こそすれ、それを負担に思うこともない。助けたという事実が、世に知られ、称讃され、名誉として残ることもない。これが、観音の救済であり、行であり、遊びなのだと考えられたのです。
宮澤賢治の詩を思い出しました。有名な「雨ニモマケズ」です。あらゆる人助けをして、人からは「デクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」という詩です。これこそが観音様をはじめとする「菩薩」の詩だと思います。
「私」、あるいはもう少し広げて「私と私を取り巻く環境」を「私」としたとき、それが有限のものであり、変わり続けるものであると理解する。これが「照見五蘊皆空」なのだと思います。
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