「度」に「さんずい」を付けますと渡(わた)す」「渡(わた)る」という漢字になります。川や海など、水の上を渡したり、渡ったりする場合には、「さんずい」が必要ですが、そうでない場合には「さんずい」はいりません。「度」は、仏のお悟りの世界である「彼岸」に「度(わた)す」「度(わた)る」という意味です。「一切の苦厄を度」す、というのは、すべての苦しみや災厄を超える、ということです。
この文句はサンスクリット語の原本にはありません。漢訳した玄奘三蔵法師が入れたと言われています。玄奘訳に先立つ羅什訳にもあり、玄奘以後の『般若心経』にも入れられています。
なぜ、玄奘は原本にないこの文句を入れたのでしょうか。意味としては矛盾はありませんし、あった方がわかりやすいようです。この理由を立川武蔵博士は以下のように推測しておられます。
最古のお経の一つである『ダンマパダ』(『法句経(ほっくきょう)』)に、
「一切の行は無常であるともし般若によって観ずるとき、もろもろの苦を厭離する。すなわちこれが清浄への道である。一切の法は無我であるともし般若によって観ずるとき、もろもろの苦を厭離する。すなわちこれが清浄への道である」(二七七、二七九)(西義雄『原始仏教における般若の研究』)というのがあり、当時この考え方が定形としてあって、羅什、玄奘がこの「度一切苦厄」を挿入したのではないか。(立川武蔵『般若心経の新しい読み方』)
「無常」「無我」は、「空」の意味内容です。「般若」は「智慧」、ここでいう「行」と「法」は「すべての存在」という意味ですから、『法句経』二七七、二七九の経文は「すべてのことがら、ものがらは無常であり、無我であることをわかれば、さまざまな苦しみを取り除くことができる」という意味です。この考え方が当時常識のようになっていたので、「一切の苦厄を度したまえり」を入れたのだというのです。
では、なぜ、すべてのことが「空」「無常」「無我」であることを理解すれば、苦しみを去ることができるのでしょう。
お釈迦様の出家の原因は、「老・病・死」という具体的なものだったと考えられてます。若さの絶頂にあるお釈迦様が、老人や病人、死人を見て嫌悪感を抱いたのでしょう。若さゆえのおごりですが、自然な感情ともいえると思います。けれども、お釈迦様はこの感情が自分にはふさわしくないと思われます。
数十年すれば、自分も同じになるのだ。今は若く生命力にあふれはつらつとしているが、やがては自分も老いさらばえ、病気になり、死を迎えねばならないのだ。他ならぬ自分のことなのに、嫌悪感を抱くなど何と私は無知なのだろう。この瞬間、「老・病・死」はお釈迦様の人生の大問題となりました。
「老・病・死」は、誰もが体験する当たり前のことです。なぜ人生の大問題、苦しみとなるのでしょうか。年をとりたくない、健康でいたい、死にたくないと思っているからです。ああしたい、こうしたいという「自我欲望」が苦しみの元なのです。当たり前のことを当たり前のこととして受け入れることのできない「自我欲望」の元には、根原的な無知があります。「無明」と仏教では呼んでいます。すべては「無常」なのに、変わらないものがあると思ってしまう、いや思いたいのです。変わらない頼れるものがあると思いたいのです。真実はそうではありません。「無常」であり「無我」であることが真実です。真実を真実として受け入れ、真実を生きる。そうすれば苦しみを超えることができるはずです。
人生はなぜ尊いのか、かけがえがないのか。人生が有限で無常だからです。古い陶磁器の価値が高いのはなぜか。陶磁器は壊れやすいからです。
無常であるがゆえに、二度とない「今」を大切に充実して生きる。「無常」を「無常」として生きる。これが「度一切苦厄」ということだと思います。
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