「今」を大切に充実して生きることについてもう少し考えてみたいと思います。
「今」というものはどういうものか、どのようにとらえればよいのでしょうか。「今」といった「瞬間」、「今」と書いた「瞬間」、「今」はすでに過去になってしまっています。「今」というのはいったいどのくらいの時間をいうのでしょうか。
「今」が過去になるのはいつでしょう。たとえば、温泉に入るということを考えてみます。脱衣所で衣服を脱ぎ、湯船に入ります。「ああ、いい湯だなあ」と思わず口から出たとします。まだ「今」ですね。湯船から出て、体を洗います。再び湯船に入ります。また「ああ、いい湯だなあ」と口からもれるかもしれません。まだ「今」ですね。湯船から上がり、浴室の出入り口付近でさっと体を拭きます。戸を開けて脱衣所に出て脱衣籠に行き、バスタオルで念入りに体をふきます。汗が出るので、扇風機の前で涼んでいると、「ああ、いい湯だったなあ」とつい呟いてしまうことがあります。風呂に入るということが、ここで「過去」になりました。
このように「今」というのは、「瞬間」ではなくてある一連の動作・行為が続いている間なのです。その動作・行為が終わると「過去」になり、別な「今」が始まるのだと思います。
「今」を充実して生きるというのは、今おこなっていることに全力を傾けやり抜くということだと思います。
私自身、二、三日後の懸案事項に気をとられて、今やるべきことに身が入らないということがあります。明日の彼女とのデートが楽しみで心ここにあらずという方もあるようです。過去の手柄話をとくとくと話す方もおられます。いずれも「今」を重視して大切にしているとはいえないようです。
『金色夜叉』の作者尾崎紅葉は胃ガンで余命幾ばくもないと宣告されたある日、内田魯庵が勤めていた丸善書店に姿を現します。魯庵は驚いて紅葉に近づき、「何を買いに来たんだ」と聞くと、紅葉は、「ブリタニカを買いにきたのだがないというのでセンチュリーを買うことにした。いい辞書だという評判だから死にみやげに見ておきたくてね。まだ一か月や二か月は生きていられそうだから、ゆっくり見ていかれるよ」と答えます。高価な辞書です。魯庵は紅葉のあまり豊かではない生活を知っていたので、今さらそんな高価な辞書など見てもしょうがないだろうと考え、「それならブリタニカにしたらどうだ。もう二か月もすれば届くから着いたら知らせるよ」と勧めます。紅葉は「医者は三か月と宣告したのだが、いつどうなるかわからない体だ。二か月後に生きていたとしても目も見えないようでは何にもならない。頭がはっきりしている内に少しでも自分のものとして見ておかないと気がすまないのだ。少しでも早く届くようにしてくれ」と頼んで帰ります。
魯庵は紅葉を見送りながら激しく心動かされたということです。
余命三か月と宣告された紅葉が、人生の最後の最後まで、物書きとしての生き方を貫き通そうとした見事な態度を見せてくれています。おそらく紅葉は、余命がどうのこうのという宣告があろうとなかろうと同じ生き方をしたと思います。宣告されていなくとも、私たちの命も同じです。明日の朝元気に起きられる保証はどこにもないのです。今、やっていることに全力投球するしかないのです。
未来があとわずかしかない。まだ何十年も生き続けるのかもしれない。いずれにせよ、私が生きられるのは「今」しかないのです。「今」を一所懸命に生きれば、それが永遠の時間につらなり、「一切の苦厄を度す」ことができるのです。
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