是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻。舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至。無意識界。無無明亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も職もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。
無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。
ここでないといわれているのは「十二縁起」(「十二支縁起」「十二因縁」)です。「十二縁起」というのは、「無明」からはじまって、最後に「老死」にいたるプロセスを合計十二の要素(支分)の系列としてあらわしたものです。私たちが苦しみにいたる過程を述べたものです。お釈迦様が悟られたのがこの「縁起の理法」です。十二縁起は、縁起の理法をあらわすもっとも発達した形のものと考えられています。
意味を説明いたしましょう。
まず、十二の支分をすべて並べてみます。
無明→行→識→名→六処→触→受→愛→取→有→生→老死(愁・悲・苦・憂・悩)
「無明に縁りて行あり、行に縁りて識あり、…」と続けていって、最後に「生に縁りて老と死あり」あるいは「生に縁りて老と死、愁・悲・苦・憂・悩があり」と説かれます。これを順観といいます。十二縁起を、無明を原因として老死という結果にいたる過程として見ることです。またこの場合の縁起を「流転}(るてん)の縁起」と呼びます。
老死を滅するにはどうすればよいのでしょう。老死は結果ですから、その根本原因である無明を滅すれば老死も滅するはずです。「無明が滅尽すれば、行は滅尽する。行が滅尽すれば………生が滅尽すれば老死が滅尽する」という具合です。このように、十二縁起を苦を滅する過程として見ることを逆観といい、「還滅(げんめつ)の縁起」と呼びます。
お釈迦様は縁起を順逆に観じてお悟りを開かれたのです。ところが『般若心経』では、十二縁起はない、流転の縁起も還滅(げんめつ)の縁起もないというのです。
それぞれの支分の意味を見てみましょう。
「無明」は、「明」がないと書きます。「明」というのは智慧のことですから、無明は「無知」ともいっています。これでは言い換えただけですから、依然として何のことやらわかりません。無知は、仏教の教えを知らないことと解釈される場合があります。「縁起」「無常」「無我」「四諦八正道」などの基本的な教えを知らないことです。
「無明」とはそんなさらりとしたものでしょうか。知ればなくなる、そんな簡単なものでしょうか。そんなにたやすいものならば誰も苦労して修行などしないような気がします。
『正法眼蔵』に『華厳経』から引用された一節があります。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔
「私が昔からおこなってきたさまざまの悪い行為は、いつからあるかわからない貪(むさぼ)りと瞋(いか)りとおろかさをもとに、身と口と意(こころ)によって生み出したものだ。私はそのすべてを今懺悔(さんげ)いたします」というような意味です。この「無始(の)貪瞋癡(とんじんち)」が「無明(むみょう)」です。「無始」つまり始まりがないというのですから、私という存在に根本的に付随しているのが無明です。というよりも、無明に私がくっついているといった方が事実に近いかもしれません。私という存在は無明なのです。光のない真っ暗な何かが自分の中にあって、突き動かされているようなそんな気がすることがあります。すべての欲望・煩悩の原動力がこの無明です。「無明の闇に沈む。根本的無明。人間はすべて無明なる存在である」と仏教学の泰斗木村泰賢(たいけん)博士はいわれました。
無明によって生じるのが「行」です。五蘊のひとつ「行蘊」という形でも出てきました。そこでは「意志作用」としておきました。意志というのは、行為をしようという心の働きで、行為の原動力となるものです。現象の潜在的なエネルギーのようなものです。ここでは「行為形成力」としておきます。まだ具体的な形はとっていないが、何かドロドロして私を突き動かそうとする混沌としたものというイメージです。
行によって「識」が生じます。「識→名→六処→触」は、私たちの認識の形、様式を示しています。「識」という認識のはたらきがあって、それが「名」(いろとかたち、認識対象)に対して、「六処」(感覚器官・能力)をとおして、「触」、すなわち接触する、という認識のパターンをあらわします。
次に生じるのが「受」で、これは好きとか嫌いとか、きれいとかきたないとかという「感受」作用です。これによって「愛」が生じます。
現代で「愛」というと愛情のことですが、ここでは「渇愛」の意味です。「渇」はたとえば、のどの渇きというように、どうしようもなく無性に欲しい状態のことで、「渇愛」は「根原的欲望」を示します。
根原的欲望が具体的な対象を得て、それを「取」、すなわち取捨選択し「執着」するということになります。欲望が具体的な形をとって現れてくるわけです。これが私たちが普通に考えている欲望に相当します。
あれが欲しい、これが欲しい、これはいらない、あれもいらない、こうしたい、ああもしたい、こうなりたい、ああはなりたくない、具体的に上げればきりがありません。特に現代人は欲張りなようです。もちろん、私たちは毎日取捨選択し生きています。有限な資源をいかに使うか、適切な取捨選択は私たちの人生を豊かにします。
その一方で、無理なあるいはすぎた望みをいだくのも人間です。たとえば、いつまでも若くいたいという望みをかなえることはできません。ところが、人間はあがくのです。現実と望みのギャップに絶望します。自分の勤勉努力によって実現できることは可能な限り、力の続く限り精進するのがお釈迦様の教えです。最大限の努力精進を惜しんではなりません。しかし、できなかったものは仕方がない。過去を振り返っても仕方がないのですが、後悔するのも人の常です。いや、後悔するのはむしろ精進努力が足りなかった場合かもしれません。もっと悪いのは、努力もせず望むことです。楽してお金もうけがしたいなどというのは論外です。
ばたばたと騒いで泣いたり笑ったり、怒ったり、まこと人間は忙しいものです。挙げ句の果てにがっくりと肩を落として、自分がこの世で一番不幸だ、などと勝手に悩んだりするのです。
これが「有」つまり「迷いの存在」に「生」―生まれる―ということです。この世に生まれるというのではなく、「迷いの存在」「輪廻の存在」に生まれるということです。
最後の「老死(愁・悲・苦・憂・悩)」は苦しみのことです。人間の苦しみにはさまざまありますが、「老死」あるいは「老、死、愁、悲、苦、憂、悩」で代表させているのです。
このように、私は毎日毎日、その時その時、迷いの存在として生まれ苦しんでいるというのが「十二縁起」の意味するところです。そして、苦を滅するには無明を滅し、以下の支分を滅していけばよいのです。ところが、『般若心経』は十二縁起に示されるような苦もないし、苦の滅することもないというのです。
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