「空」においては、仏教の教えの主なものがすべて「無」であると否定されてしまいました。「空」の意味は、「縁起」「無常」「無我」ということばであらわすことができます。あえて「空」ということばを使わなくても、仏教の教えは説けることになります。原始仏典において、「空」ということばはそれほど重要なものとしては扱われていませんでした。極端なことをいえば、「空」ということばがなくても何とかやっていけるのです。それが、『般若心経』をはじめとする般若経類では、最重要のものとなっているのはなぜでしょうか。他のことばであらわせるものをなぜ、わざわざ「空」を使ったのでしょうか。ここには二つの意味があると私は考えます。
ひとつは部派仏教のアビダルマに対するアンチテーゼとしての「空」です。このことをお話しするために仏教の歴史について簡単に触れなければなりません。
序でも紹介しましたが、仏教史の区分の一例を次に示してみます。立川武蔵博士によるものです。
- 紀元前五〇〇年頃〜 原始仏教の時代
- 紀元前三五〇年頃〜 部派仏教の時代
- 紀元前後一世紀〜 大乗仏教・部派仏教並立の時代
- 七世紀〜 密教の時代(〜一三世紀)
お釈迦様が亡くなられてから、約百年後に仏教教団の最初の分裂が起こったと考えられています。根本分裂と呼ばれていますが、保守的な上座部と革新的な大衆部の二派に分かれます。これ以後を部派仏教の時代といいます。その後、枝末分裂と呼ばれる何度かの分裂を繰り返し、最終的には20ほどの部派に分かれたといわれています。
部派教団は、王族や貴族、大商人から伽藍や荘園などの寄進を受け、豊富な経済的基盤によって僧院深く教理の研究に専念することができました。教理の研究は「対法(アビダルマ)」といわれ、その成果は「論蔵」という名で集積され、教えの集積である「経蔵」および僧侶の生活規範の集積である「律蔵」とあわせて「三蔵」と呼ばれるようになります。各部派は、それぞれの「三蔵」を整備し伝持するようになります。
僧侶たちは自らの悟りに専念し、一般在家信者とは離れていってしまいました。部派教団では、悟りは出家者に独占され、その境涯も仏陀より一段低い「阿羅漢」にしか到達できないとされました。
このような状況の中、革新的な宗教運動が起こり、運動の担い手は自らの仏教を「大乗」と名乗ります。「大乗」とは「すぐれた乗り物」「大きな乗り物」の意味で、従来の保守的な部派仏教を「小乗」、「劣った乗り物」と呼んでけなし、批判したのです。
現在、東南アジアで行われている仏教は、部派仏教の一派である「南方上座部」です。しかし、今問題にしている部派仏教とは異なり、自らの悟りにのみ専心するということもなく、「小乗」という名称はふさわしくありませんので、「テーラワーダ仏教」とか、「南方上座部仏教」と呼んでいます。
大乗仏教は、利他行によって悟りにいたることなど、種々の理念をかかげました。その中のひとつが「空」の思想と六波羅蜜、特に般若波羅蜜で、『般若心経』のテーマにもなっています。般若経類は大乗仏教の先駆をなすもので、部派仏教の「アビダルマ」哲学を批判することも使命のひとつだったと考えられます。「空」の思想は、精緻に作り上げられた「アビダルマ」が「無」であることを主張しています。
『般若心経』で「無」とされた「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四諦」は、お釈迦様の時代の原始仏教においてすでに説かれていた教えです。それが、アビダルマにおいて整理分類され分析の対象となった結果、「説一切有部(せついつさいうぶ)」(以後「有部(うぶ)」と略します)という有力な部派では、「五位七十五法」という体系にまとめられます。五蘊・十二処・十八界を整備細分化し、「五位」という範疇のもとに一切法(すべての存在・現象)を七十五種類に分けたものです。
この七十五種類の法は、「有為法(ういほう)」と「無為法」に分けられます。「有為法」には、七十二種類、「無為法」には三種類が数えられています。「有為」とは、さまざまな因果関係によって作り上げられている、という意味ですから、「有為法」は現実のすべてのものを意味します。「無為法」は、有為法に対する執着が消えた悟りの境地(涅槃(ねはん))に属するものです。それは修行者の内面の体験で、現実の生と別に、どこかよそにあるものではないのですが、アビダルマでは有為法とは別に並列的に無為法を設定しています。
無為法はさまざまな因果関係によって作り上げられたものではないので、縁起しているものではなく、無常なものでもありません。実在のもので自性がある実体ということになります。
ところが、有部では有為法も自性のある実体と考えられています。それでは無常という仏教の教えに反することになります。しかし、有部の説明によれば無常ということになるのです。それは以下のような考え方にもとづいています。
「説一切有部」というのは、「一切が有ると説く部(派)」という意味です。「すべてがある」という有部の主張は、単なるもの(存在)ではなくて、ダルマ(法)に関して、過去・現在・未来のすべてがあるというのです。過去の法も現在の法も未来の法もすべてがあるという意味です。すべてのものが過去・現在・未来の時間をつらぬいて存在しているというのではなく、もの(存在)の要素としての法(ダルマ)が過去という瞬間・現在という瞬間・未来という瞬間ごとにあるという意味なのです。
たとえば、電球は東日本では一秒間に五十回の点滅を繰り返していますが、ずっと連続して点灯しているように見えます。それと同様に、私はある瞬間において、多くのダルマが集まった状態で生じ、次の瞬間には滅し、そのまた次の瞬間には生じ、…ということを繰り返しているというのです。刹那生滅を繰り返しているわけです。
生じるというのは、ダルマが未来から現在に現れ出ることであり、滅するというのはそのダルマが現在から過去に去るのだということです。ダルマそれ自体は不変の特質をもっていて、未来においてもあり、現在においてもあり、過去においてもある、つまり過去・現在・未来の三世に実有だということになります。
たとえとしては少しずれるかもしれませんが、この「ダルマ」と「もの」の関係は、「物質」と「原子」の関係に似ています。原子は不変ですが、その組合せが変わると物質は変化します。それと同様に、それぞれの瞬間に生じるダルマは多種多様で、瞬間ごとにそれらは異なるので、私たちの認識する世界は時々刻々変化し、「無常」なのだというのです。
しかし、これでは真の無常とはいえないのではないでしょうか。お釈迦様が示されるすべてが無常だという意味は、ダルマ自体も無常だということだと思います。ましてや、縁起しない実体である「無為法」の存在はお釈迦様の教えとはかけ離れたものです。
「空」はこういった有部のアビダルマ哲学を批判し、すべての存在は仏教本来の「縁起」「無常」「無我」というあり方をしていることを再確認し、徹底させたのです。有部の教学によって、一度骨抜きにされてしまった「無常」ということばを捨て、「空」という手あかのついていないことばを使ったのだろうと思います。
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