筏(いかだ)の喩(たと)えとして有名なお経があります。原始仏教経典に属する『中部経典』の「蛇喩経」の中にあるもので、『金剛般若経』にも引用されています。
ある男が筏を作って無事に大河を渡りきった後、その筏が大恩人だからといって、筏をかついで行きたいと考えたならばそれは誤りである。筏を置いて行くのが正しいやり方である。同様に、私の教えを理解したならば、その教えさえも捨て去るべきである。
お釈迦様は執着を離れるためにこのような筏の譬えの教えを説いたといわれます。
「すべてのものは無常である」と説かれたお釈迦様ご自身は、年老い、病になられ、亡くなられました。一方、教えは二千数百年後の現在まで伝えられ、未来にも永遠に残ることでしょう。教えを説かれたお釈迦様はとうの昔に亡くなられましたが、教えは現代にまでそのままの形で残っています。私たちは、あるゆるものは無常だといいながら、その教えは、不変なものと思い込んでいます。現実は無常なのですが、現実をことばによって表現したもの、概念、情報は不変なものだという有部の学僧たちと同じ落とし穴に落ちてしまっています。
「空」は、教え、情報、概念、もっといえば「ことば」の永遠性、虚構性をも否定するのです。
「空の思想」の大成者ナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ))は主著『中論』の中で次のようにいっています。
他に縁ることなく、寂静であって、戯論によって戯論されることなく、無分別であり、種々の意味を持たない、──これが真実の相である。(『中論』一八・九)
「他に縁ることなく」…真実は他人の教えによって知るものではなく、自分で瞑想し、直観しなければ得られないものだ、ということ。
「寂静」…「空」の同義語。思考・思慮・判断・ことばの対象とならないから寂静という。
「戯論」…言語的多元性。ことばの虚構。
(梶山雄一・上山春平『仏教の思想3空の論理《中観》』)
真実は、思考の対象とはなり得ないもので、思考を超越していて、直観によってしか得ることのできないものだ、というのです。
子どものときにあるなぞなぞを問われたことがあります。
「新潟県には、上り坂と下り坂のどっちがたくさんあるか」というものです。私はすぐ、頭の中で坂を数え始めました。でも数えられるはずがありません。それで、県外に行くときには必ず山を越えて行くし、峠のところが県境になっていることも多いから、上り坂が多いと考えて、「上り坂だ」と答えました。「バーカ、おんなじだよ」なるほど、同じ坂を下から上るときには「上り坂」、上から下るときには「下り坂」になるんだから、同じか。
地面が傾斜しているところを私たちは「坂」と呼んでいます。さらに、その坂を下から見上げて「上り坂」、上から見下ろして「下り坂」といっています。ところが、一度定義してしまうと、定義をした実物から離れて定義がひとり歩きをはじめてしまいます。実物と離れて「ことば」が単独で存在するようになってしまいます。「実体化」してしまうのです。私はこの実体化してしまった、実物とは切り離された「ことば」としての「上り坂」「下り坂」を数えようとしたのです。
これが「ことばの虚構性」です。ことばは必要なものです。ことばがなければ、日常生活が成り立ちませんし、ものごとを理解したり、文明を築くこともできなかったでしょう。しかし、ことばは事物の本質にかかわるものではなくて、事物やことばとの関係を示すだけのものです。
私はよく肩こりを起こします。少し運動不足になったりすると、すぐに肩から背中にかけて筋肉がかたくこわばって痛くなります。緊張を強いられたりしてもすぐに肩にきます。しかし、アメリカ人は肩こりには絶対にならないそうです。もちろん、アメリカ人も日本人と同様、肩から背中にかけての筋肉がこわばって痛くなることはあるのです。しかし、彼らはそれを「背中が痛む」I have a pain on the back. と表現するのです。ですから、肩はこりません。
たしかに、仏教の教えを説いたり、真実を示すのにことばは必要です。ことばが虚構であることを伝えるのにもことばは必要です。しかし、実物を離れてことばが示す本体があるとか、現実のほかにことばが示す真実の世界があるとか考えることは虚構である、とナーガールジュナはいっているのだと思います。
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