あらゆるものは「空」であり、本質的には「無」なるものだ、と説いてきました。ここからは、「空」の実践について述べられます。「空」なる生き方について述べられます。
「菩提薩埵」については、前に述べました。「菩薩」の正式の言い方です。ここでは悟りを求める心を起こした者すべてというよりも、観自在菩薩をはじめとする地蔵菩薩や文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩などの偉大な菩薩を考えた方がよいと思います。もちろん、こういった理念形の菩薩だけではなく、実際に悟りを求めて果敢に精進している無名の菩薩を思い描いても間違いではありません。
「
罣礙」は「ひっかかり、さまたげ、さわり、障害」、「
顚倒」は「さかさまにひっくり返った誤った考え」の意味です。「
涅槃」は、俗語ニッバーンの音写語で、サンスクリットではニルバーナ、パーリ語ではニッバーナといいます。「迷いの火を吹き消した状態」の意味で、「涅槃寂静」と言い方で、「涅槃の境地は安らぎである」ことを意味します。「悟りの境地」と理解しておきましょう。
したがって、「菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に。心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、顚倒夢想を遠離して涅槃を究竟す」は次のような意味になります。
「菩薩たちは、般若波羅蜜多にもとづいているから、心には何のわだかまりもない。わだかまりがないから、恐怖心もないし、ひっくり返った誤った考えや夢のようなとりとめのない考えを遠く離れていて、悟りの境地を徹底している」
この部分を読んで、「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行しし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」という冒頭の文句を思い出す方もおられるでしょう。ここでは、主語が観自在菩薩という特定の菩薩ではなく、菩薩一般に広げられていて、「深般若波羅蜜多」の「深」が落ちて、単なる「般若波羅蜜多」となっていますが、意味するところはほとんど同じです。
「深般若波羅蜜多」は、菩薩の修行徳目である「六波羅蜜」全体をさすことを指摘しました。ここでは「深」がない「般若波羅蜜」になっていますから、六波羅蜜の「智慧波羅蜜」をさしていると考えるべきです。すべてが「空」であると理解することが「智慧波羅蜜」です。注意したいのは、前にも述べましたが、ここでいう「理解」というのは、単なる知識ではなく、それを知ったことによって生き方が変わる、生き方に何らかの影響を与えるような理解です。人格が変わるといってもいいかもしれません。すべてが「空」だと知り、知ることによって「空」なる生き方をせざるを得なくなったというのが、「智慧波羅蜜」すなわち「般若波羅蜜」です。
ところで、六波羅蜜は以下のようになります。
- 布施波羅蜜…喜びの気持ちで他に施す。
- 持戒波羅蜜…戒を守る。たとえば、在家の「五戒」(不殺生戒、不偸盗戒、不妄語戒、不邪淫戒、不飲酒戒)を生き方の基準にして自らに課す。
- 忍辱波羅蜜…堪え忍ぶ。
- 精進波羅蜜…一所懸命に努力することを持続する。
- 禅定波羅蜜…心を静かに落ち着け、自己を見つめる。
- 智慧波羅蜜…すべては「空」であると理解する。
1から5までは「智慧」の実践と考えられます。1から5までの実践をつうじて、知識が「智慧」に高まるともいえます。しかし、「智慧」の裏付けがないと、1から5まではそのとき限りの実践で終わってしまい、良い習慣、さらに良い人格には結びつきません。つまり、1から5までの五波羅蜜と智慧波羅蜜は、入力と出力になっていて互いに循環しながら、人格を高め、「涅槃を
究竟」していくのです。
また、『八千頌般若経』に「智恵の完成を習っているときには、六種のすべての完成を習っているのである」(梶山雄一訳『大乗仏典2八千頌般若経1』)とあることと考えあわせても、「智慧波羅蜜」すなわち単なる「般若波羅蜜多」と「深般若波羅蜜多」は実質は等しいと考えてよいでしょう。
「心に何のわだかまりもない」というのは、「ことばの虚構性」から自由になっているからです。「金持ちは幸福だ」「若さは望ましい」「健康なことは幸福だ」とか、逆に「貧乏は不幸だ」「老いることは好ましくない」「病気になることは不幸だ」などと考えています。しかし実際には、金持ちであっても不幸な人、若さゆえの悩み、健康なゆえの苦しみ、幸福な貧乏人、老いてますます充実している人、病気だが幸福な人がいくらでもいるのです。「ことばの虚構性」を脱していて、思いこみや偏見から自由になっているからです。
思いこみや偏見から自由ならば、貧乏になることも年老いることも病気になることも恐怖ではなくなります。ものごとのすがたを正しく理解し、悟りの境地をさらに深めて徹底していくことになります。
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