『般若心経』も例外ではなく、最初に作られてから、原典そのものが数百年間にわたって改変、増広を受け、その上翻訳も一度きりではなく何度もなされてきました。そのため、『般若心経』といっても何種類もの『般若心経』が現存しています。まず、形式の上で分けると大本(広本)、小本(略本)という二種類があり、さらに原語のサンスクリット語以外に、漢訳されたもの、チベット語訳されたものなどが伝わっています。以下に示してみましょう。
サンスクリット写本
- 小本
- 法隆寺の貝葉心経 八世紀初め、あるいは八世紀後半に書写したもの
- 浄厳の写本 一六九四年に法隆寺本を写したもの
- 阿叉羅帖本 一八五九年頃に法隆寺本を模写したもの
- 慈雲の刊本 一七六二年頃に法隆寺本を復元・訂正したもの
- 1〜4以外の写本約五種
- 澄仁本 最澄が八〇五年に、また円仁が八四七年にそれぞれ持ち帰ったものを校訂して一本としたもの 一三五二年頃に筆写したものが現存 この系統に属する写本が約九種現存
- 敦煌本 敦煌出土で、サンスクリットを漢字で音写したもの 『大正新脩大蔵経第八巻』、八五一〜八五二頁に所収
- 玄奘本 日本に伝承されてきた7と同系の写本
- 御室本 一七六二年出版
- 大本
- 日本伝来のもの 慧運が八三八(八四二)〜八四七年の入唐の際に持ち帰ったもの
- 中国伝来のもの 1とほぼ同じもの
- ネパール伝来のもの 一八三六年に写したもので、 河口慧海が持ち帰ったもの
- チベット語訳 ほとんどが大本に相当し、二系統ある
- モンゴル語訳 大本に相当
漢訳
- 小本
- 鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明呪経』一巻 四〇二〜四一三年翻訳 『大正蔵第八巻』No.250、八四七頁下段。
- 玄奘訳『般若波羅蜜多心経』一巻 六四九年翻訳 『大正蔵第八巻』No.251、八四八頁下段。
- 現在読誦されている『摩訶般若波羅蜜多心経』の元
- 大本
- 法月重訳『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』一巻 七三八年翻訳 『大正蔵第八巻』No.252、八四九頁上〜中段。
- 般若・利言等訳『般若波羅蜜多心経』一巻 七九〇年翻訳 『大正蔵第八巻』No.253、八四九中〜八五〇頁上段。
- 智慧輪訳『般若波羅蜜多心経』一巻 九世紀中頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.254、八五〇頁上〜中段。
- 法成訳『般若波羅蜜多心経』一巻 八三六〜八四三年頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.255、八五〇中〜八五一頁上段。
- 不空音訳『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』一巻 8世紀音訳 『大正蔵第八巻』No.256、八五一上〜八五二頁上段。
- 施護訳『聖仏母般若波羅蜜多心経』一巻 九八〇◯九八六年頃翻訳 『大正蔵第八巻』No.257、八五二頁中〜下段。
このように、『般若心経』はサンスクリット語の原典の写本が数多く現存し、また三種類の言語に翻訳されています。その中でも、漢訳は五世紀の初めから十世紀の終わりまで、五百年以上にわたってなされてきました。このことは、中国においていかに『般若心経』が重要なお経であったかを示していると思います。
ところで、漢訳について見てみると、小本の二本は内容の上で問題にするほどの違いはありません。
また、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』の一七四頁から一七五頁には、上述のサンスクリット写本・小本1法隆寺の貝葉心経と8玄奘本とを元に構成したサンスクリット語のテキストが掲載されており、その翻訳が玄奘訳の読み下しと並べて載せられていますが、内容の上では差がありません。
さらに、不空の音訳を除く大本の五本も内容の上では違いはありません。
ところで、大本には小本の前に、序分と呼ばれる前文があり、後に、流通分と呼ばれる結びの一文が付け加えられています。すなわち、大本は「お釈迦様が多くの弟子や菩薩とともに王舎城の霊鷲山上におられ、瞑想に入っておられ、そのときに」という、いわば場面設定の部分に続いて小本とほとんど一致する本文があり、その後に「お釈迦様が瞑想から出て、観自在菩薩を称讃すると、その場に集まっていたすべての者たちがお釈迦様のことばに歓喜した」という一文で締めくくられるという形になっています。
このように、『般若心経』の中心課題について、大本は小本に何ら付け加えるようなものはないのです。
詳細は、後ほど触れることになると思いますが、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』の一八一頁から一八四頁に、サンスクリットの大本『般若心経』の全文の翻訳が載っていますし、金岡秀友校注『般若心経』には一九六頁から一九七頁に漢訳の大本『般若心経』の序文と流通分の日本語訳が掲載されていますので、興味のある方はご参照ください。
ここでは私たちが普段読誦している『般若心経』、すなわち玄奘訳『般若波羅蜜多心経』を中心にして、他のものは適宜参考にして読んでいくという方法を取ることにします。 実は、中国で書かれてきたおびただしい数の注釈書や研究書は、ほとんどすべてが玄奘訳に対してなされてきたものです。
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